晝は夢 夜ぞうつつ

本と、夜の考えごと

人のつながりと距離感

東京という人にまみれた土地でいると
至近距離に沢山の人間がいるじゃない。


それでも、人は孤独を感じるし、
目の前にどんなに心のあたたかい人間がいたって、
頭の中にこだまする苦しみにとらわれていれば
近づいてくる電車に飛び込んでしまう。

ただ、血の通った人間がそばにいるだけでは
その人の心は救われないんだね。

その人の大事な人って、
そのとき隣にいなかったのかも知れないけど、
もしかしたら、新幹線に乗ったら3、4時間で
会いに行ける距離にいたのかも知れない。


その人じゃなきゃだめだったのかしら、
その人がいたら大丈夫だったのかしら。


ねぇ、
人間の「作り」なんて、
大して変わらないし、

性格が合う・合わない、
趣味が合う・合わない、
世代が合う・合わない、
みたいな表面的な
「相性の良さ」はあるかも知れないけど

それにしても、
こんなに人にあふれている東京で
心がつながっている人は
こんなにも少ないのだろうね。


血のつながりとか
法的な関係性とか
お互いが認知している関係性って
そんなに特別なものなの?


そういう「知ってる人」がいないと
死にそうな時、
駆けつけてくれる人はいないのかな。

親とか子とか、親友とか彼氏とか彼女とか、
そういう関係性を持っていなければ、
目の前の人間が悲しみにくれていても
手を差し伸べられないの?


電車で目の前でスマホゲームに勤しむ
よく知らないサラリーマンの
顔を見て、もし同じ中学の同級生だったら、
わたしの目にうつる彼の姿は変わるんだろうか。

新宿の改札前に人間が100人いても
わたしの「知ってる人」が迎えに来ないと
涙が出てしまうんだろうか。


「知ってる人」とか「関係性のある人」を増やしていけば
ひとりじゃなくなるなんてこと、ないのにね。


それでも尚、
なんでそういう定義がないと、
人を見ようと思わないのだろう。


満員電車で倒れて、
声も出せずに床に座り込んでいた時、

目の前の座席の人は見て見ぬふりしたし
周りに立ってる大人たちも見て見ぬふりしてた。


わたしとつながりのない
関係性のない人間しかいない空間で
誰かに何かを求めているわけじゃないけれど、

だったら、いないで欲しかったよ。


人間がいるから
わたしは生きていられるのに
人間がいるから、
泣きたいのに泣けない空間になってるのって
なんて皮肉なできごと。


そういう世界で生きててさ、
ざーざー降りの雨の中で倒れて吐いてたときに

「あんた大丈夫か」って
声かけてくれた魚屋さんのおじさんのこと
多分永遠に忘れないよ。

別に、それでわたしの心は救われなかったし、
わたしの体調はよくならなかったんだけど、
多分永遠に忘れないと思う。


毎日その道を通るたびにおじさんのこと思い出すけど、
わたしを毎日思い出している人っているのかな。


関係性の定義がない人との
距離感が掴めなくても、
いなければよかった空気を演出する人間に
なってしまいたくないな。


全然知らない人の人身事故に、
家に帰って号泣して
何にもならないんだけど、

そうやって100回知らない人の死に
注げなかった愛を悔やんだら
いつか1人だけでも誰かの命をあたためられる日が来るかな。


今は何にもならないけど。

号泣しても、
流れた血は乾いていくだけだけど。