晝は夢 夜ぞうつつ

本と、夜の考えごと

人生のピークは何歳か

小学校1年生で確信した人生のピーク


人生のピークとはいつだろう。

私の場合、小学校1年生で確信した。
小学校中学年、つまり小学3年生~4年生である。

事実、それまでの私は毎年1年を振り返る度
年々楽しくなっており、上り調子を感じていた。

3年生と4年生は日々楽しくなる人生の波を感じていた。
今が一番いい時だ、と毎日感じる日々だった。

3年生も良かったが、
実際過ごしてみると4年生がピークであった様に思う。

私の人生のピークは小学校4年生、齢10歳であった。

どんな楽しい事があったのかと聞かれれば、
特に大きな思い出もないし、特別な出来事があったわけではない。

ただ毎日が楽しいだけである。
毎日が昨日より楽しく、この一瞬が楽しかっただけだ。

12歳で終わった世界


12歳からは大人の世界が始まると確信した。
敬語の世界、見せかけの世界、作り出した世界、
文化に溶け込むこと、空気を読むこと、あるべき自分を作ること。

置かれた環境の中で、よりスムーズに物事を進行する為、歯車へなるのだ。

そう、「私の人生」はそこで終わったのである。

12歳頃までは自分の人生をグラフ化して楽しんでいた。
谷でさえ、楽しめるものであったのだ。

気付けばその後、こういった事をしみじみ考える事などなくなった。
終わった世界について論じても仕方ないのである。
私は放棄したのだ。

ピークを過ぎた人生に期待するものなどなかった。

生きているという地獄


ピークの過ぎた人生はかすれた色合いをしていた。
私の色は背景に染まっていた。
順応することで静かに生きた。

抵抗できぬ時が過ぎゆく現実の中、
ただひたすらに命を燃やし続けているということは恐怖である。
無意識に、ひとときも休まず心臓が鳴っているのだ。

私にとって、心音は死へのカウントダウンに聞こえていた。
一生のうちに心臓が鳴る回数は大体決まっているという。
死へのカウントダウンを聞いて、
にこにこしている人は頭のねじがおかしいのではなかろうか。

ところで、人は恋をすると胸が高鳴るが、
そうやって心臓をより多く動かす事で早死にしたいのだろうか。
早く死にたくて胸を高鳴らせるのだろうか。

恋をしている時間は幸せであろう。
胸を高鳴らせる時間は至福であろう。

幸せのかわりに、命を差し出しているのだろうか。
幸せの罰として、幸せの時間は短いのだろうか。

自ら幸せを貪るために恋をして、
胸を高鳴らせる男女の愚かな可愛さよ。

私は心臓を鳴らさない様に細心の注意をはらって生きていた。

今思えば、下り坂の人生で、消えるだけの人生で、
よりカウントダウンを先延ばしにしようとする行為は矛盾しているように思う。

私には、逆らえないカウントダウンを早回しにするほど
覚悟も勇気もなかっただけなのかも知れない。

とにかくあの頃、私は心臓がこわかった。
血液を排出する為、静かに足音をならす右心房と左心房。

今でも心音は儚い。
人の心音を聞くと不安になるが愛しく思う。
死に向かうかよわい肉体を抱えなければならない弱さ、恐怖。
人は総じて儚いいきものだ。