晝は夢 夜ぞうつつ

本と、夜の考えごと

「知っている」と「知っている」の壁

意図が伝わらない

前回、言語化した瞬間に思考が終了する記事を書きましたが、
その場に居合わせて、
対面で真剣に伝えても大体意図は伝わっていないものです。

そもそも、辞書を引いたら言葉の意味は一つではないのに、
同じ言葉を聞いてもその人によってイメージするものは違います。

言葉を繋げることで正しく伝わる人にはより正しい文脈となりますが、
伝わらない人にはどんどんベクトルがズレていくこともあります。

言葉はすごく大切だと思うけど、
意図を伝えることを目的としてはならないと思うのです。

相手に対する想いを送れば
ズレて伝わっていても数年後何かのきっかけになることもあるし、
全然違う過去の経験と繋ぎ合わせて
その人の中で勝手に化学反応起こすこともあるし。

話している内容だけじゃなくて、
伝えようとする姿勢に対して何らかの副産物があったりもするしね。

意図が伝わらないことを前提条件に、
それでも話すっていうのが人間の営みなんだなと思います。

伝えたい事が砂漠の様な広大なものであったら、
私が言語化出来るのは手に掬い取った砂の様なもので、
殆どが指の隙間からさらさらと流れてゆく。
更に、相手が受け取ろうと手を差し出すと
殆どが風に溶けてゆく。

その数粒の砂で笑ったり泣いたり好きになったり出来るほど、
人間の想像力は素晴らしいとも言えますが。

知っているわけない

よく、「それ知ってます」「それ聞いたことあります」
みたいな返答されることあるじゃない?
私もするけれど。

「知っている」って死ぬほど定義のない言葉ですよね。

・耳にしたことあります
・(辞書的な)意味を理解しています
・ある程度勉強し、詳細まで理解しています
・行動しています、身についています
・本当の意味で腑に落ちています

などなど。

どのレベルの「知っている」なのか知ったこっちゃない。
本人も知ったこっちゃないと思う。

「身についている」とか「本当の意味で腑に落ちている」状態が
正しい「知っている」状態だとは思いますが
「腑に落ちた」なんて定義出来ない。

筆記試験をさせて100点取れれば「腑に落ちている」と証明できるわけでもなし、
AさんとBさんが「腑に落ちている」としても
2人は同じ「知っている」ではないと思うんですよね。

腑に落ちる「腑」は存在するか

ところで、腑に落ちるって腹に落ちるとも言えますが、
何か「腹」っていうと物理的な「おなか」感があるので
腑に落ちるの方が好きです。

「腑」って五臓六腑の腑ですね、ないぞうですね。
だけど、もちろん腸とか胃とか物理的なものを指しているわけではない。
じゃあ、我々はどの「ないぞう」で理解しているのか。

私の感覚では、
心の奥に自身の世界観を形成するブラックホールの様なものがあって
そこに、つまり自分自身の世界へ染みわたる様にして広がる感じです。
よって、腑に落ちるレベルで「知っている」とその後の人生に影響を与えます。

知っていると知らないでは雲泥の差なのですが
知っていると知っているも雲泥の差だと思いませんか。

これが知っていると知っているの壁。
「脳」の理解と「ないぞう」の理解。

全く違うレベルのものを
「知っている」で片付けられて、
それで会話が進んじゃうのは言葉の弱いところですね。

広がりがあるといえば聞こえがいいかな。


今日は一つ腑に落ちたことがあったので、
こんなことを書いてみました。

知れば知る程世界がこわくなることもあります。
知らなければよかったこともあります。

でも落としてしまえば自分の武器になります。
だから、出来るだけ知りたい。
腑に落ちるまで知りたい。

って、私は思うわけです。

どうせ、ブラックホールなんだし。
知ることをこわがらなくていいんだよ。