晝は夢 夜ぞうつつ

本と、夜の考えごと

シンギュラリティとデジタル人間

シンギュラリティから見る価値観

人工知能の発達が目覚ましい。
シンギュラリティは必然であると思う。
人間の知能を超えるのは当たり前だ。

そこであなたはデジタル人間になりますか。

額にマイクロチップを入れたら、何も持ち歩くものはない。
体内に仮想通貨情報がある為全てはキャッシュレス、
身体の状態もリアルタイムで監視されている為、
異変は即座に知る事が出来る。
知識も必要なものだけチップへ保存出来る為、
試験勉強など不要である。
意図しただけで文章を書く事が出来る。

それは凄い!と思いますか。
これらの価値観は「知能」を絶対的に偉いものだという思想に基づいていると思う。

我々人間は知能が発達していればいる程偉いのだろうか。
記憶力が良ければ良い程凄いのだろうか。

人間の素晴らしさを知能で測ろうとするならば
AI以下になるのは明らかなのだから、
その内生まれたままの人間でいる事は素晴らしくなくなるのである。

より良い人口知能を装着し、
より素晴らしいデジタルツールと繋がる事で価値を増大しなければならないのだ。

古典的な身体の意味

肉々しい古典的な身体を備えている以上、
知能をデジタルによって最大化する事は難しい。
自然の摂理と逆をゆくからである。

より知能を高めたいのであれば、
肉々しさを取り去り、
清潔で秩序化されたクリーンな肉体(もはや肉体と表現していいのか分からないが)を得る必要がある。

ところで、身体について「肉々しい」という表現は言い得て妙だと思う。

この言葉に対してどの様なイメージをするだろうか。
汚さや知性の低さやネガティブなイメージを思い浮かべるのであれば
あなたは既に知能を唯一神とする思考に完全に囚われている。

いくらAIが発達しても、
我々の身体が自然とデジタルに進化する事はないのだ。
すると身体が大変醜く足手まといに思えてくる。

何故自然な進化ではデジタルへ対応していかないのか考えて欲しい。
我々に最も必要なものは果たして知能なのか。
果たして知能が一番偉いのだろうか。

意識は真実か

我々は意識を本体だと思い込み、意識を真実だと思い込む。
だが、実のところ意識は「ツール」である。

ツールという事は、意識はデジタルと相性が良い。
意識をコントロール出来れば
どんな場所にいてもハワイの海岸でバカンスが出来る。

物理的な豊かさは不要となっていく。
意識上の感覚は重視されるが、物理的な五感は退化していく。
意識を本体だと思っていると、ロボット化されていくわけである。

身体は言葉通り入れ物となり、
人間の実態は意識、つまり情報そのものとなっていく。

情報の中の世界ではとても秩序的で安定的で生ぬるい幸福感が続く。

情報が壊滅したとき、入れ物の身体はゴミとなる。
意識とデジタルに固執した人間の成れの果て。
身体だけではもう何も出来ないのである。

情報が壊滅した瞬間、
ゴミと化した人間の身体より、
ゴキブリの方が逞しく美しい。

別に怖がらせたいわけではなく、
肉々しい身体の意味を問う事、
ひとつの視点に固執する事は家畜化するという事を言いたい。

そういう世界が在り得る。
そうじゃない世界もあり得る。

全てはあなたの選択、価値観。
何に重きを置くか。