晝は夢 夜ぞうつつ

本と、夜の考えごと

GIVE=受け取るという事

言葉の定義による危険性

一般的な言葉であればあるほど
とある言葉を見て
何かを連想していると感じる隙もなく
言葉本来の意味ではない
連想したイメージに引っ張られている事が多々ある。

この本を少し読んで「GIVE」のイメージって超絶危険と思った。
GIVE & TAKE 「与える人」こそ成功する時代

要はこの世には「GIVER」と「TAKER」と「MATCHER」がいて、
与える人、奪う人、損得のバランスを取る人に分けられますと。
で、与える人が成功するよねって話。

GIVEとは言葉通り「与える」という意味だが
ネガティブな自動連想がある様に思う。

例えば、
「自分よりも他人の利益を優先しよう」という連想から
自身の欲を抑えるべきだ、欲は悪い事だ、というネガティブイメージ。

人間は煩悩具足の凡夫と言う。
つまり、煩悩で作られた煩悩に満ち満ちているのが人間であり、
煩悩=人間、煩悩がなくなれば人間ではないという事だ。

全ての人間が死ぬ事と同様に、
全ての人間は欲の塊である。

という事は歪められた連想を元に
「GIVER」になろうとすると
欲を抑えようとして
より罪悪感やストレスが溜まる危険性がある。

自動連想をコントロールする

では、単に「与える」という言葉を
シンプルに解釈しようと努めてみる。

それでもまた連想が起きる。
何故か縦の関係が見えてくるのだ。

募金をする。
これは上から下、強者から弱者の関係が浮き彫りとなる。
逆に献上は下から上へであるし、
とある時は上から下に、とある時は下から上に、とパターン分けされてくる。

さて、それって本質なのだろうか。

対等なGIVE、与えるとは何か。
それは一つの言い換えとして「GIFT」と言えると思う。

相手を尊く思う気持ちを込めて、
何かを「贈る」、「GIFT」であり、
自身が謙遜するでも○○してやったでもない。

「GIFT」の自動連想はポジティブイメージが多い事に気付いただろうか。

結局「贈る」を英訳すると「GIVE」なのだが、
日本人の場合は「GIVERになろう」ではなくて
「GIFTを贈る人になろう」とした方がより弊害がないと思われる。

我々は与えられた言葉から自動連想するイメージを受け取っているという事。

ところで英語圏の人は「GIVE」に自己犠牲的イメージないのかなあ、
与えると贈るの使い分けってどうやって表現してるんだろうね。
文脈なんだろうなー。

「受け取る」という最大のGIFT

「GIFTを贈ろう」としても
全てが全て幸せな結末になるとは限らないし
成功するとも限らない。

要は自分が贈りたい!と思っても、
相手に取って不要であったりタイミングが悪かったりすると
「気持ちは嬉しいけど」「ちょっとおせっかいな人だな」となる事がある。

最大のGIFTを贈るとは何か考えると

「受け取る」

これに尽きる。

贈り物を渡して物凄く喜んでくれる事が
自分が貰った時よりも嬉しかったりする様に。

自分が伝えたい気持ちを
しっかりと受け止めてくれた時の気持ちが嫌って人はいないわけ。

また、「受け取る」という行為の凄い所は
タイミングが悪いという事が起こり得ない事。

相手が能動的な動作、
つまり「伝える」、「感情表現する」、「贈る」等をしてきた瞬間
それをそのまま「受け取る」。

解釈するとか、評価するとか、褒めるとか、
味付けされたものではない。

ただ、相手が能動的に渡してきた何かを
「そのまんま」「受け取る」って
与えるよりもずっとずっと与えてる。

だからGIVERは受け取る人だと思う。

贈ると受け取る、一見逆に見えるが、
逆にあるもの程、同じものだったりする。

広大な宇宙を研究すればするほど量子や超ひもへ行き着いて
いつの間にか一番小さい単位になっていく様に。
真逆に見えるものが実は繋がっている。

宇宙のこと考えると、ウロボロスの蛇みたいって思う。

だから、もしあなたが
一番行きたい場所や一番会いたい人に背を向けて、
逆方向に走り続けなければならない状況だったとしても。
ひたすらにその道を突き詰めていった先に、
その場所が待ってるし、その人が待ってる。

何だっけ、そんな様な話。
砂漠を歩いて行ったらおばあさんに出会うやつ(曖昧)
全然違う話だったかも。
砂って言ったら安部公房砂の女を連想しちゃうし(全然違う)

あぁ、わたしもいつだってイメージに振り回されているんだなーって。