晝は夢 夜ぞうつつ

本と、夜の考えごと

認知の崩壊の先を一緒にいてくれる?

脳ミソは枠を作り、ルートを作り、パターンを作りたがる。
我々は脳ミソの奴隷になってはいけないが、
脳ミソがないと生きられない。

自分の意思がある、自分で生きている、などと思ってはいけない。
かといって生かされている論を唱えるつもりもない。

結局我々は肉体がある以上、
人間というシステムの奴隷であり
脳ミソの策略にハマっている。

ある一定の方向から抜け出せなくなって、
パターン化されたロボットの様に動きながら
揺らぐ波の様に
肉体から出られない心との隔たりを感じてくすぶる。

わたしはそのロボット化と悲しみの揺らぎの間に生じる
かすかな香りの様なものに人間らしさを感じる。

その少しだけのその人らしさ、を感じられた時
人間が愛しくて、けなげで、どうしようもなくなる。

そういう時って涙も出ないし、
言葉も出ないし、
瞬間を愛でるほどの余裕もなくて、
感情もよくわからない。

この不自由さの中で手に入れる
少しだけのコントロール感と、
少しだけの自由と、
少しだけの愛おしさが、
どれほど貴重で美しいものか。

好きとか嫌いとか、
あるとかないとか、
そういう論争の上空で、
物質になれないモヤみたいなものが
全世界を包んでいたらいい。

人間には認知出来ないから、
本質を見るためには人間を飛び越える必要がある。
つまり、我々は人間でありながら
いつか認知の崩壊をしなければならない。

その異常なパターン化されていないカオスを耐えられるか。
カオスは錯乱ではない、何も感じられないのだ。

正確に言えば、
あるとないが共存しているから
あるもないも認識が出来ない。

判断が出来ない状況を得られる感覚、
握られた何か、を味わう。

人間が出られないという事を利用して、
閉じ込められていることを一種の安心に変えるという事。

どこまでも真実を知りたい。
真実がどんな姿であっても、
知るという事は受け入れる以外の選択肢がない。

真実は白黒ではないから、
自分の存在がある事を認識出来ない状態を耐えたい。

君を見つめたとき、ついてきてね。
言葉も、もう奏でられないから。
わたしもあなたも認知できないから。