晝は夢 夜ぞうつつ

本と、夜の考えごと

君の経験を宿して。

頭の中で思い描いたことは経験で、
夢の中で見た景色も経験で、
君と昨日食べた夜ご飯も経験で、
全てがおもちゃ箱におさめられていく。


ねぇ、
君に問う。

三次元のこの指で触れた経験だけを
いわゆる「経験」としてしまうのはなぜ?


ねぇ、君が、
ずっと一人ぼっちで小さな部屋に住んでいたとしたら。


そこにいつも置いてある生ぬるい水と、
夢の中で飲んだ
温かくてやさしいかぼちゃのポタージュは
君のおもちゃ箱の色彩に同じ色を与えているのかな?

君を形成する「経験」の彩りは
この指で本当に触れたかどうかなんて
そんなダサいジャッジが全てなの?


この世界ではいつも
誰かが目撃し、共有している。

リアリティが塗り重ねられていく。

たった一人の世界における
経験の差異を考えてから、

この世界で起きる経験と
君の頭の中の経験の差異を考えてみて欲しい。


僕が見たものを君が見て、
知らない誰かが見て、
この地球が見て、
この空気が触れているから、

何だかもうそれは
「絶対的な事実」みたいになっていくよね。

君が心奪われた
あの温かいスープの事なんて
本当にあったのかなかったのか
分からない様な感覚になってきてしまうよね。

何度も何度も触れられる
冷たい窓枠の温度が
「本当」で「真実」で、
そんな感じがしてきて。

ただそれが「事実」として
君の世界にのさばっていく。


君が見た景色を、
そのまま僕の目にうつすことはできなくても、
あの温かいスープの事を教えて。

「あの時の」

共有された瞬間に
それは絶対的な事実にのし上がっていく。

スピーチしなくてもいいんだ。
昔話の様に囁けばいいんだ。

僕が目撃者になったなら、
君の経験が僕のおもちゃ箱に宿るから。

君の経験が僕の色になるから。


ねぇ、人は

いつか頭の中で思い描いた景色を
いざ目の前にした時、
子どもの頃描いた絵に
再会したような感覚に陥るの。

このまま時が止まればいいのに。

そう思う感覚には
いつもおもちゃ箱の香りが漂っていて。

時間は進んでいるようで
一瞬で過去だと思っていた
時空とすれ違っている。

それはデジャヴュだったりシンクロだったり
ほんの少しの「あれ?」って感覚。

「あの時の」

その言葉が一緒に口から出てきた時、
それはもう紛れもない「真実」だと思わない?