晝は夢 夜ぞうつつ

本と、夜の考えごと

結局最後は「宗教みたい」になる件

最終到着地は目に見えない

何事も突き詰めて考えていくと
結局「宗教かよ」ってなります。

別に、仏教キリスト教の話をしたいわけではありません。
儒教でもイスラム教でもカルトでもなく、宗教「みたい」になるってことです。

つまり手で掴めるものでもなくて、
AだからBである、と明確に解が出るものでもなくて、
物理的な世界を超越した高次元の
よくわからない法則やよくわからない力がありますよねって話に行き着く。

スピリチュアルと言い換えてもいいかも知れません。
霊感があって実際に何か見えたり感じたりする人には
霊的な存在を信じざるを得ないのかも知れないけど、
霊感ない人にとってはスピリチュアルなんて意味わからない洗脳宗教ですよね。

でも、人の目に見えて、人の耳に聞こえるものって
ものすごーーーーくちょびっとですよ。

私たちの身体は本当は穴だらけで、
この瞬間も素粒子バンバン通り抜けています。

聞こえない音域を超音波なんて言いますが、
犬や猫には聞こえている音域もありますし、人間が認識出来ていないだけ。

何事も人間基準、自分基準で見えたもの。
それを世界だと思っていると、頭打ちになります。

数学は仏教

一見化学的で論理的で現実的に見える
「1+1=2」という単純な数字でも、
永遠に+1していったらどこに行き着くのだろうか。

一、十、百、千、万… 兆、京辺りまでは使うけれど、
阿僧祇(あそうぎ)、那由他(なゆた)、不可思議(ふかしぎ)とか
単位の次元じゃなくてもはや宇宙だと思いませんか?
100不可思議のいちごって想像つきますか?
一生かけても食べきれない量かなあ・・・(いいなー♡笑

ちなみに少数の方にいっても宗教みたいになるんですね。
清浄(しょうじょう、せいじょう)、
阿頼耶(あらや)、
阿摩羅(あまら)、
涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)

涅槃って仏教でいう悟りですよね。
え、数学の話してたのにいつの間にか仏教になってる。

これは端的過ぎるとは思いますが、
何事も深堀しまくっていくと人間の脳のレベルでは到達出来ない次元に突入します。

信仰という名の不自由

宗教って昔の人の大いなる知恵を学ぶことが出来るし、
普通に生きていたら想像もつかないような視点で世界を見られるようになるし、
とっても大切なものだと思います。

また、大量の種類があるので、
世界の見方も多種多様であるということが分かります。

しかし、1つの宗教を信仰するということは「不自由」です。

即ち、他の考え方を遮断して「A宗教」という1視点からしか物事を見られないということです。
自分の考え方に固執することも同様。
自分の住んでいる国の文化を標準と思うことも同様。

ちなみに「信仰」って超絶「不自由」なんですけど、超絶「楽」です。

今いる世界を否定されたら自分を否定されるようなものだし、
こわいし嫌だし安心出来ないでしょ?

A宗教は正しい!日本は正しい!俺は正しい!と決めてしまうとすごい楽です。
安心安全大丈夫。

宗教とか国の文化って同じ考えの人が周りに集まっているわけですから、
周りもそうだしって思えて、更に安心安全。

がん宣告されたり、八方ふさがりの状態になって、
孤独感を感じたり、何も信じられない状態になったとき、
信仰は心の平穏をもたらし、安全な世界をもたらします。

自分の力ではどうしようもない場所に立たされたとき、
「神頼み」してしまうのはそのためでしょう。
心の平穏をもたらしますからね。

ですから、信仰はいけないことと言っているわけではありません。

絶対に信仰しないと決めて、
ボロボロになって死んでしまっては元も子もないしね。

信仰という平和で楽な世界から

私が言いたいのは、
信仰してもいいんだけど、

何かを「信じる」ということは
「自身の平穏」「楽」を取得しているということで、
広がりのない「不自由」な状態にいるということだ

ってことを、認識してる?
してないとヤバくない?ってことです。

平穏な世界で心が安定したら、
「ん~?あれ?」って思う時が来ますから、
違う世界を選択して生きている人や、
「自由」を選択して彷徨い続ける人などを観察してみてください。

私が思う世界は、
全世界の人が自分で作り上げた宗教を持ちつつ(自分なりの意見・思考)、
他の人の宗教を受け入れ、学び、自分の宗教を柔軟に変容させ広げていくこと
です。

体力も気力もパワフルな状態でないと出来ないけどね。

だから、つらい人は「信仰」して「楽」になっていいのです。
「信仰」って親の言うことを信じるとか、
夫や妻や恋人を信じることとか、
日本を信仰して右翼的になることも含みます。
自分が正しいと思うことも「信仰」です。

いっぱい「信仰」して強くなったら、
自分の宗教観を広げていけばいいのです。

「宗教と信仰」との程よい距離感は永遠のテーマだなあと思うわけです。

私も全然出来てないから。
弱いから何かを信じて、答えを明確にしてくれたら、めっちゃ楽やな~って思っちゃう。
こうやって書くことは自分への戒めでもあります。