晝は夢 夜ぞうつつ

本と、夜の考えごと

自分という幻想

「自分」は環境によって作られた反応でしかない


「自分」はこう思ってるとか、
「自分」はこういう性格ですとか、
「自分」の夢はこうですとか、

普通に「自分」「自分」言いますけど、
それって、誰なんですかね。

その自分っていつ生まれたんですかね。

受精卵に自我ってあります?
生まれたての赤ちゃんに夢ってあります?

腹が減った、痛いなどの表現は
生後数か月で見られると思うのですが
それって所謂「自分」としての自我ではなく、
人間という生物の普遍的な反射的反応ですよね。

私は生まれた瞬間に
今認識している「自分」は居なかったと思うんです。

物質としての受精卵は発生したけど、
「自分」は認識していない。

性格も考え方も、
結局0歳児~幼児の間の経験、環境によるものが殆ど。
性格の歪み、辛い人生の原因を辿ると
大抵「親」に行き着きますよね。

外部環境、外部刺激による経験により
反応パターン、思考パターンが形成され、
パターンが自動化されることで
「性格」そして「自分」が形成されていきます。

全ては外部刺激からの反応が起源であり、
「本当の自分」など最初から存在し得ないと思うのです。

さて、では…
例えば前世があったと仮定するとしましょう。
生まれてから経験した筈のないことなのに
何故か分かっているという幼児が確かにいる様です。

でも結局、それって前世での経験、環境から形成されたものを
今生に受け継いでいるのです。
経験した時期が今生でなく前世であったいうだけで、
結局外部刺激による積み重ねであり、
元々「自分」が存在したわけではないと考えます。

「本当の自分」はこうじゃないとか言いますが、
本当の自分へ遡ったら「無」ですけど。

「観測者」という偉そうな人


瞑想やマインドフルネスを行っていると
「感情」を持ち「反応」をする自分を自分そのものと認識せず、
感情を持つ自分を更に上から俯瞰する「観測者」という立場を自己とし、
反応者をコントロール出来る様になってきます。

こういう事があると、いつもこんな反応をするな。
こういう過去の経験があったから、
こんな事が起きると嫌な気持ちになるのだな。という具合に。

これを続けていくと、
反応者である外部刺激の産物である物理的自己と、
反応者を観測する俯瞰的自己にハッキリと分かれてきます。

ABC理論ですね。
(要はA:出来事→C:結果ではなく、B:反応の選択の余地がある事で
 いくらでもC:結果は変えられるということです。
 この話はまた今度したいところですね~)

そんで!!そんなことはどうでもいいんだけどさ!!!

あ~こんな反応してるなあ私~!って俯瞰してる
「観測者」というのは誰なのでしょうか?

その偉そうな「観測者」っていつどこで生まれたんでしょうか?

意識しない限り
「嫌だ~~」「楽しい~」「これが欲しい!」なんて言ってる反応者を自己と認識していますが
意識した瞬間に「観測者」が現れるんですね。

私は大人と言える歳になってから
しみじみと観測者を認識していますが、
幼児の時に「観測しよう」という意思があったなら、
「観測者」はいつでも現れると思うんですよね。

つまり、何かしらの外部刺激や経験がなくとも
「観測者」は誰にでも存在しています。

私が論点としたいのは、
その観測者はどこから来て誰なんだよって事です。

それって「自分」だと思いますか?
でも観測者って感情がわいてきたり、
こうしたいのああしたいのって駄々こねないんですよ。
ニュートラルな空気みたいな人なんですよ。

個性のない淡々とした存在を「自分」としちゃいますか?
それも違和感があるんですよね。

そもそも観測者というのは、
反応者が居ない限り観測する対象がないので
存在しようがないし認識出来ません。

もはや量子力学みたいになってしまうのですが、
片方がないと片方が成り立ちえない、
存在し得ないというわけです。

あなたは3人いる説


ここで仮設を立てたいのですが、
反応者という幼稚な物理的自己が居ない限り
観測者は存在し得ないし、
環境や刺激がない限り反応すら出来ない為、
環境(身体)・反応者(感情)・観測者(意識)がセットになって
3人1チームとしてそれぞれが認識し合わないと
人間が機能しないんじゃないか説
です。

その三位一体となった状態こそが「自分」なのでは。

え?何か結局普通になってしまった\(^o^)/

でもね、観測者を意識していない人が殆どですから、
環境と反応者だけで生きていると
一部の反応を自分そのものと認識している事になり大変危険な状態だと思います。

反応者というのは刺激への反応で形成されているので、
幼少期めちゃめちゃ虐待して放っておいたとして、
そのまま成長したら超幸せな状態にはならないと容易に想像つきますよね。

つまり
周りの環境、刺激にされるがままに
「自分」をコントロールされている
ということです。

先述した虐待されていた子どもであっても、
反応者=「自分」という認識をやめて、
三位一体で「自分」を認識するといくらでも超幸せになれると思いませんか。
だって自分で自分をコントロールしてるんだもん。
(もちろんそんな簡単なものじゃないとは認識していますが。)

いや~~、
もう外から作られた反応する
「自分」みたいなのに振り回されるのやめたらよくね?って。

かくいう私も振り回されているので、
強固な三位一体を作りたい~が最近のゆるいテーマです。

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うつろひやすきは
誰彼と

信じがたきは
何れ其れと

空想耽り
語れども

恐れらるるは
我にあり

主体なき空
見下ろして

俯瞰は正と宣うか