晝は夢 夜ぞうつつ

本と、夜の考えごと

秋葉原という次元

変わらないものなど何ひとつない

先日、秋葉原に立ち寄る機会があったのですが
昔の光景が走馬灯の様に蘇り、
祭りの後と雨上がりの虹の様な
静かな切なさが広がりました。

すべてのものは二度と元には戻りません。
それが進化であろうとも、
同じ体験は二度とやってこないのです。


且つて私は「オタク」と呼ばれる部類の人間でした。

秋葉原は三次元であり二次元で、
「オタク」を許してくれる場所、
心地のいい、生きる事を許された異空間でした。

まだメイド喫茶が流行る前、
「萌え」という言葉が一般に理解される前の時代、
電気街は本当に異質な空間でした。

私はそれが好きだった。
日常の喧噪とは違う、
もう一つの世界がそこにはあった。

多次元に生きる

私にオタクの人生がなかったら、
今の私は存在していないと思う。

それは多次元に生きる事。

二次元の世界を知った時、
私の世界は明らかに2倍に広がったのです。

三次元に生きる事に疲れ、絶望した人が
二次元に生きている例が時々ありますが、
二次元に生きるという事は可能なのです。

身体という肉体は三次元に存在している為
必要最低限のケアをしなければならない。
と、いうことであの頃のオタクは(今も?)
チェックシャツにリュックに眼鏡だったのか。

そして私は、三次元と二次元
どちらにも生きるという事を試していた。

それは可能でした。

「オタク」のイメージによる偏見から、
オタクを拒絶する部類の人間が
本当に勿体ないと思った程、壮大で素晴らしかった。

ただ、それはいつでも素晴らしいものではない。

享受すべきとき、その瞬間に広がるもの。
その瞬間を逃さない事。

静かな秋葉原

今の世界の苦しさが、
ぎゅうぎゅうと音を立てて絞られる様な音を出した。

あの時の秋葉原
限りなく広がる草原の様で、
永遠に食べ続けられるご馳走の様だった。

今の秋葉原は物理的に変わっていた。
それは形成する人間の構成比率でもあり、
あの日以来暗黙の了解にて守られる秩序であり、
うごめく熱情をひた隠しにする表情に見られた。

しかし外国人観光客はどうだろう、
変わってしまった秋葉原
限りない草原を感じているかも知れなかった。

そして私はどうだろう、
静かな湖面に映る人々の表情を
ただただ、ぼんやりと眺めるだけだ。

そこには何も存在しなかった。

且つて存在したものは
今世界中のどこにも存在しない。

今、私の手の中にあるぬくもりは
明日、どこにも存在しない。

塗り重ねた記憶から
切なく、儚く、すくいあげようとしても
それは無駄な行為である。

過去を正確に思い出すことは出来ない。
もうそこには生きる次元は存在しない。

私は今、ここで、手の中のぬくもりを
感じることでしか生きられない。

だからこそ手の中のぬくもりが
狂おしい程愛おしく、熱く、揺らぎ、悲しい。