晝は夢 夜ぞうつつ

本と、夜の考えごと

「気」を「氣」と書く人って何者

日本語の持つ潜在的可能性

突然ですが、英語ってシンプルな言語ですよね。
誰が書いても意味が同じ様に伝わる構造故、
イントネーションや身振り手振りで個性や感情を表現するわけです。

逆に日本語は発音も平坦で淡々としています。
それはイントネーションや身振り手振りに頼らず、
言語そのものに表現の多様性があり、
言葉だけでなく文章の構造からも伝えたい心情を細かいニュアンスで表現出来る
非常に優れたツールなのではと思うわけです。

ひらがな・カタカナ・漢字のどれを使うかによっても伝わるニュアンスって違いますし、
文末を「です」にするか「である」なのか、
「だ」なのか「だよね」なのか「と思わん?」なのか。
たったそれだけで全く違う印象を与えられます。

英語は世界共通言語ですし、
コミュニケーションツールとしてはすごく重要だなと思います。

ただ、それとは違う視点で日本語を理解する必要があると思うのです。
日本人として、日本語というツールを単なる道具として扱うだけではなく
日本語が持つ美しさ、日本語の潜在的な可能性をちゃんと考えなければいけないと思うわけですよ。

「氣」って何なん

でね、日本語と言えば最近気になっている事がありまして。
「気」という漢字を「氣」って書く人をやたら頻繁に見るのです。

最初はちょっと独特な主張がある人なのかな〜って思ったり、
気功とかレイキとかそっちの界隈では「氣」って書くのかな〜と思ったり、
でも気功とか全く関係ない人も「氣」って使ってるしな〜と
思い巡らせてつつも、まあいいかとスルーしてたわけです。

しかし、出版化された書籍内でも「氣」を見つけまして。
出版社介しても尚「氣」を使ってる!

「気」を「氣」と書く人種は何者なん!?
「氣」を使うことで何を伝えたいんや!!

ってことで、重い腰をあげて調べました。(前置き長い)

封印された「氣」の歴史

分かったのは、戦前「氣」が元々の漢字で常用されていたが、
戦後、 GHQ の占領政策で「気」から「氣」へ漢字の表記を変えたということ。

恥ずかしながら、正直その発想はなかった状態になりました。
完全に常識の範疇から偏った解釈をしていました・・・。

まあ、当時のGHQ的には日本人を支配下に置きたいわけですから
日本人に大人しく従ってもらいたいわけです。
いらん考えを持たない様に都合の悪そうなものはどんどん封印したのでしょうね。

でね。
「気」と「氣」の字面を見て分かるように
「米」って全方位に広がってゆくイメージをもたらし、
「〆」は閉じ込める、終わる、閉じていくイメージです。

「元気」とか「病気」とか、
エネルギー満タンなのかエネルギーが弱っているのか、
心身から溢れるパワー、エネルギーの状態を意味していますよね。

少なくとも一般的に「エネルギー」という単語から
「〆る」イメージって浮かばなくないですか。
私は3次元的に放射するパワーの様なイメージを抱きます。

わざわざ「氣」という漢字を使わせない様にした事実からも分かりますし、
昔から「言霊」という言葉もあることから、
言語のもつ力って本当に本当に大きいです。

我々先祖が使ってきた「広がっていくエネルギー」の意味をもつ
「氣」を封印されていたなんてね。

じゃあ「氣」を使おうと思ったとして、
ふっつーに友達からLINEで「元氣〜?」ってきたら
若干違和感感じますよね。(笑)

何なん!?この人って思われるだけ。

という事で使う時は意図をセットで伝えるって大事。

「氣」という本来の漢字を尊重したい思いは山々だけど、
頑なに「氣」を乱用するのではなく、
TPOに合わせて、使う時は注釈つきでいこうと思います。

「私」も「霊」もGHQによって変えられた表記

ちなみに、GHQによって表記を変えられた漢字って他にもあるようで
「私」は「和多志」と表記されていたんですって。

これ知った時物凄いぞわーーーってしました。

日本人の元来持つ気質として「和」があります。
和風、和食・・・
「和」という言葉は日本の根底に流れるスピリットの様なものを感じるのです。

わたしとは、多くの志、沢山の思いを抱えている、
そしてそれを自身の中で和する、調和する。
そうして成り立っているものなのですね。
超絶にしっくりきます。

では、変えられた「私」という漢字とは。

「禾へん」は穀物や実りを意味します。
「ム」という部首は三方から囲まれる、小さく留まる。
実りが限定される。

更に「ム」という部首が使われる漢字を見ると、
「去」:土地からいなくなる
「払」:手元からなくなる 
この様に「なくなる」という否定も意味しています。

よって実りがなくなる、「実らない」。
これが「私」です。

ぞわーーーーーーってしません?
部首解読しただけなのに。

わたしとは和多志、「多くの志を和する」であったのに
「実りが限定される、実らない」ですって。


ちなみに
「霊」は元々「靈」、
「馬鹿」は元々「莫迦」だったのだとか。

これ以上言及しませんが、
気になる方は「靈」の語源をお調べ下さい。
何を抑圧したかったのかが見えてきます。

知る事で得る感動としんどさ

わたしの今年のテーマの一つに「常識を突き抜ける」というものがありまして。
様々な思惑で押し付けられている「常識」という小さな枠を認知する必要があるのですが
もうね、いちいちショッキングでしんどいです。(笑)

「知る」から逃げるなと言っている以上、
深掘りするしか道はないんですけどね。

しかも、思った事を全方位にアピールしても仕方ないんです。
前述した様に「和多志は元氣です!」って言い出したら
は?何だこいつ!って思われて終わりなわけ。
当たり前の反応ですね。

つまり、一人で異端児やってちゃダメなんですよ。
真実であるはずのものが余計に胡散臭くなっていくわけです。

葛藤の中にある事、中観という視点で物事を見る、
決断しない揺らぎの中に生きる。
得る事も多いけど負荷も多い。

そんな葛藤の中、ブログはわたしのチラシの裏。(笑)
今年もゆるりとお付き合いくださると幸いです。


追記

「氣」以外にも、
1000円等のお金の「円」を「縁」と書く人種も氣になっていました。

でも、これにはあまり大きな意味はなさそうです。

一説では、アメブロは商用利用するなって言われているから
○円です!と商売っ気あるワード使わない方がよろしいので「縁」とした説がある様です。

あとはお金じゃなくてご縁だよ!的な何かを伝えたい人もいるのかなと思います。

個人的には「円」ってお金を表すのにぴったりな漢字だと思うので
「縁」派の意見があれば理由をお聞きしたいな。

お金は円の様に循環し流れていくものだもの。
どう思われますか?