晝は夢 夜ぞうつつ

本と、夜の考えごと

ポリアモリーという通過点

ずっと書けなかったポリアモリー

ポリアモリーについてずっと書きたかった。

だが、一部が誇張され、
現実的でない関係であり、
異端な現象として捉えられている事に対し恐れがあった。

もう既に「誤解」が浸透しているとは思うが、
わたしなりにポリアモリーの解釈が安定してきた為記す。

ポリアモリーとは
 同時に複数の人と交際する恋愛関係。
 当事者全員が合意した、誠実で継続的な関係

結婚制度という縛りの中で
幸せな人と苦しい人を比較してどちらが多いのか。

1対1の愛しか許されない世界で
行き場をなくした愛はどこへ漂うのか。

浮気や不倫は隠蔽、不信へ発展し、
当人だけでなく社会全体の孤立感を増幅させる。

結婚という名の「繋がり」を契った筈が、
透明な瓶の中にスッポリ入った様な「孤独感」を生んでいる。

一夫一妻制の弊害か、カサンドラ症候群

ポリアモリーを知った数年前、
同時期にカサンドラ症候群を知った。

カサンドラ症候群とは
 アスペルガー症候群(AS)の夫または妻と
 情緒的な相互関係が築けないために
 配偶者に生じる、身体的・精神的症状を表す

ASの夫※は相手の心情を汲み取れない為、
妻は適切なコミュニケーションが取れない事で
悲しくなったりイライラしてしまうのは
自分のせいなのではないかと自責し、心身共に疲れ果ててしまう。
※ASの多くは男性であり、カサンドラ症候群は主に女性である

これを知った時、ASに対する理解とは別に
「配偶者のみと深い心の繋がりを持つものだ」という
閉じられた夫婦(結婚)制度による弊害なのではと感じた。

一見全く違う単語であるが、
現代社会=カサンドラ
これからの社会=ポリアモリーという構図が浮かんだのだ。

「恋愛」という成り立ち様のない日本語

恋の語源は、他人に対して何かして欲しいと「乞う」事からきている。
孤独で、満たされない心の穴を埋めたいという欠乏感である。

それに対し愛とは、
胸がいっぱいになり、いとおしく想う様である。

欠けているものを補おうという状態と
満たされて溢れそうな状態は成り立ち様がないのだ。
つまり「恋愛」というものは存在し得ない。

我々は存在しない「恋愛」という幻想を引きずったまま、
追い打ちをかけるように「結婚」と言う名の
「男女の関係は1対1の関係でしか成り立たない筈だ」という
押しつけ契約に印を押す羽目になる。

結婚という瓶の中で

「恋」の先にある契りには
お互いに相手から自分に足りないものを100%埋めて貰おうとするも
永遠に満たされない欠乏感が付き纏う。
欠乏感を他の異性で埋めようとすれば不倫のいっちょあがりである。

「愛」の先にある契りには
お互いに愛を与える事で支え合う共存関係が存在するが、
1人分の愛しか許されないという瓶の中に閉じ込められている為、
泉の様に溢れる可能性のある愛を押し殺す羽目になる。

ちなみに夫婦愛と子孫繁栄は別物と考える。
子どもを「愛の結晶」などと言うが、
愛のない夫婦から生まれた子どもに愛はないのか。

子どもとは夫婦とは切り離された
別個体の1つの凛とした生命であり愛である。
夫婦の愛の形ではなく、
子どもそのものが愛である。

「ポリアモリー=不倫は文化」なのか

「恋」を軸にしたままポリアモリーを解釈しようとすると
ただの「性にお盛んな人」になる。(笑)

浮気や不倫を公言してやり放題やるのがポリアモリーではない。
上記の誤解が一番多い様に思われる。

さて、ではポリアモリーとは何かと言うと
「恋愛という幻想」と「結婚という制限契約」から
解放される為の「愛」の通過点である、と結論付ける。

恋はいけない事なのか

恋の段階でポリアモリーは実践出来ないが、
大いに恋をして欲しい。

恋は自らの欠乏感を如実に表現してくれる。
これらの満たされない思いを外へ求めている以上
永遠に埋まらないという体感を得られる貴重な感情だ。

1対1の愛から築く関係は全てのベースとなる。
これは1つのフェーズであり、
1対1の愛の先にしか「複数愛」は成り立ち得ない。

まあ、今のところ真のポリアモリー実践者は
叶姉妹しかいないのではなかろうか。

そしてポリアモリーでさえも通過点であり
最終形態ではないと思っている。

「これで終わり」という終着地点は
何においても存在しないという事を頭の片隅に置いておこう。