晝は夢 夜ぞうつつ

本と、夜の考えごと

元来、インターネットは根暗の為のオアシスであった

インターネットという「まこと」の世界

このブログのタイトルでもある江戸川乱歩の言葉に
「うつし世はゆめ よるの夢こそまこと」とあるが、
あの頃の私にとってインターネットの世界とは、
「まこと」の世界であった。

あの頃とは、今から15年~20年程前の事である。

Windows95の起動画面は今でも鮮明に蘇る。
画面下に流れる青色のグラデーション。
ダイヤルアップ接続の変わらぬ音声に胸躍らせた。

インターネットの接続サービスは、
当時従量課金であった為、
大好きなインターネットも長く滞留する事は出来なかった。

「1日中インターネットが使い放題になったらどんなに幸せか」と日々考えていた。
それが現実のものになるとは、当時は夢にも思わなかったものだ。

もう一人の「本当」の自分


あの頃インターネットで本名を晒す者など一人も居なかった。
ましてや顔写真を公開するなど考えられない世界。

我々が交流する為にはハンドルネームを用い、
時に分身となるアイコンを用いた。

それは、現実の生身の自分を脱ぎ捨てて何者にでもなれる証であった。
なりたい者になれる自由な世界。
「本当」の私がそこにいた。

どこの誰とも分からぬ人と
チャットでコミュニケーションを取るのは大変興奮したものだ。

当時私は小学生であったが、
相手は私の年齢など知る由もない。

現実に生きづらさを覚えていた私にとって
インターネットは唯一羽根を伸ばせる場所であった。

洗練されないダサさと黒歴史


暫くして、個人でホームページを立ち上げるブームが巻き起こった。
思い思いのセンスで、0からタグ打ちして作った手作りのサイト達。

愛おしいダサさの残る空気感がたまらなかった。
私はその個性とセンスを一つ一つ確かめる様にインターネットを放浪した。
「管理人」と称し、各自のサイトを運営する人間たちに心奪われていったのだ。

いつしか私もHTMLをぽつりぽつりと叩きながら、
自身のサイトで「管理人」を務めるようになっていった。
訪問者は愛しいお客様であり、一人ひとり丁寧に歓迎したものだ。

互いに惹かれ合うセンスを感じたら、「相互リンク」。
サイトには訪問者カウンターが設置してあり、何番目の訪問者か分かる。
キリ番」を踏むとささやかなプレゼントがあったりするのだ。
また、それがダサくてたまらない。

個性とは、得てして洗練されないものだ。
私はインターネットの裏にいる体温を感じていた。
見えない相手との繋がりこそ安心するものはない。

自身が根暗であることを自覚していたし、
黒歴史となる事も自覚していたが、
許される世界がそこにあったのだ。

私はいつまでも、貪る様にインターネットを泳いだ。

ブログの到来


「ブログ」がきてしまった。
根暗のオアシスにショベルカーが侵入してきていたのだ。
我々が試行錯誤した、ダサい時代は終わりを迎えていた。

ブログはインターネット初心者であってもすぐに自身のサイトを持て、
デザインは選べばいいだけで手軽過ぎた。
均された土地に、明るい一般人が土足で上がってきてしまったのだ。

時代に乗って私もブログを書いていたが、
もうタグ打ちしていた頃の情熱は持ち合わせていなかった。

しかし、デザインが洗練されても、
文章から滲み出る黒歴史感は至る所で見られた。
私はその滲み出る人間味を文章から掬い取って愛した。

その頃はまだ、ぎりぎりインターネットが「まこと」であった。
オアシスの断片をかき集めながら、
「まこと」で居られる場所を右往左往した。

私は当時、友達にも親にも言えない気持ちをブログに綴っていた。
会った事も顔も知らないインターネットの友人が毎回コメントを添えてくれる。

生身の自分の一部を反映する程度のものとなってはきていたが、
それでも尚、匿名で活動出来るmixiなどにハマる余力はあった様に思う。

遂に根暗は根絶させられた、FaceBookという名の終焉


FaceBookが流行りだした時は、
遂に人類の頭がおかしくなったのかと思った。

ここで私の中のオアシスは湿度を失ってしまった。
リアルとインターネットが完全に紐づき始めたのだ。

もう根暗の分身を存在させる場所は限られた場所にしかなかった。
もはや現実世界同様、インターネットもリア充が勝つ世界となり、
今までの全ては「うつつ」となり果てた。

そこから先のインターネットに愛を感じる事はない。

娯楽であり、ツールであり、効率化であり、業務である。
そこに愛しいダサさは存在しない。
心はもう存在しないのだ。

私はFBを使っても、好きになる事は出来ない。
また、今日のブロガーを、Youtuberを、
娯楽として楽しむ事はあっても愛す事がどうしても出来ない。

それを「過去に生きる残念な人」と人は呼ぶのかも知れないが、
過去を頑なに守っているわけではない。
そうしたくても、出来ないのだ。

実際、理解を推し進める努力はしている。
しかし、今のインターネットに居場所を感じる事が出来ない。
奪われた水分が戻ってくる事はもうないのである。

大好きだったはずのインターネットに、
無味乾燥な文章を書くことは非常につらいものがある。
少しでもあの頃の体温を感じられたらと、
もがく自分が非常に滑稽でもある。

これからもこうやって、
オアシスの記憶を永遠と行き来し続けるのであろうか。
そしてそれは全てに通ずるものなのかも知れない。
生きることとはオアシスを奪われる事であり、オアシスを期待し続ける事なのではないか。

だから、根暗なのだ。
だから、「うつし世はゆめ」なのである。